2024/11/05 火曜日「虚と実」
おはようございます。今日は真面目なお話しようかと思います。何かを取り上げようとしたとき、そこにはおおよそ、必ず2つの選択肢があるって話です。
例えば、人間の選択って究極、右に曲がるか、左に曲がるかで進む道が違うわけです。そういった選択の連続の上にその人が形成されますって。この真理の1つは正しいわけです。僕は絵を描く道に進んでそれを毎日仕事としてやってます。
これも1つの選択ですね。
ですけど、これって、選択として正しいだけであって、その一人一人には正しいとは限らないわけです。どの時代に産まれは平等ではないですからね。
自責と他責という言葉の価値観がありますよね。自責的に傾向に考えるくせがあるひとは、この自分が正しい病に掛かります。その選択は時と場合によってと、その人がやる目標に対して正しい論理であるだけってだけの場合があります。
逆に他責というのは、周りのやることに対して、他者に注意や責を指摘して注意喚起をするといういい面もありますが、言葉選びを慎重と優しさがないと度が過ぎでしまう。的外れや、場がそうなってないのに、ただ相手を傷つけるだけの発言や行動になってしまいます。
人間、表も裏、虚も実、利益と利害も其々異なっているからこそ意見で衝突してしまう現象はこれがずっと続いてきた人間の歴史の1つの原理です。
これを知って認めた上で貴方の人生、自分の馬鹿と他者の馬鹿に立ち向かわうか、立ち向かわないか選択を求められるわけです。
というか、民主主義の本来の意義というのは一人一人が自立して考えて、協調して、選択するということが本質であると僕は理解しています。都合の良いところの欲望と利害だけで、何か希望をもって前を進ませて発展させるということをせず、日本風にいうなら祭りとご飯だけでは、生活というのは成立しないです。
それは例えばクイズやランキングで正解を固定するようなものです。その正解はずっと正解なんて、実際の生活ではありえないですよね。何をするにしても柔軟に事に対応しなければ人類の発展なんてないわけです。
誰かが、音声を発明し、誰かが通信を発明し、誰かが、無線を発明し、今のスマートフォンが成立しているんです。
そこに辿り着くには幾人もの犠牲と血の文脈デジタルでさえも人間の繋がりという文化(カルチャー)なんです。
そういった一人一人の魂の繋がりの文脈を軽視する。ただ一時、貴方だけが利益を得るというのは人類の歴史そのものを否定するということです。
現代は、自由と商を履き違えた大衆商業主義の暴走と僕は考察しています。
行き過ぎた自由に立ち向かえる軸は文化カルチャーだけです。
つまり、尊重と対話です。
そして、商の成り立ちは本来は、互いの利益を分け合い循環することです。本来は「交換」や「取引」で、自由の履き違えの「傲慢」「搾取」ではないですね。
偉大な商人は自由と商の真贋に到達して究極のバランスでここでぎりぎりの綱引きで踊ります。日本なら渋沢栄一や、イギリスなら、ロバート・オーエン、アフリカなら、 アルコ・ダンゴート、中国なら馬雲(ジャック・マーです。それは世界の国々でいますよって話です。
偉大な人物の仕事じゃなくても、本来の仕事をするってそうではないでしょうか。
嫌なことがあっても、互いの利益の総和をとりにいく。
それはどんな職業や役割でもそうでしょ。それは皆尊重して理解しましょうよってことです。僕は1日10時間は絵を描いて納期してますが、それを他者に理解を求めることではない。
其れは絵を描く=仕事
好きでやってないんです。できるからやっているんです。
この辺説明が難しいですけど、それが仕事で生業だからです。
好きって感情で仕事についたことがないのでうまく言語化できてないのでもどかしいですが、例えばなんで友達になっているか分からないで自然に仲良くなるってことあるでしょ。僕にとって絵はそいう物です。別に好きでやってるわけじゃない。
親や周りの環境にそういった職業の人達が多かったってだけです。自分で自分の人生を明確に選んだわけでもない。結局は後づけでそうなっているって説明はできますけどね。
近くにいる人を真似るって人間として素直にそうなっただけです。
皆其々の文脈に生きている。専門的な言葉は避けますが、サラリーマン風に伝えれば、広報、営業、販売、宣伝、配属されるところによってその人は良くも悪くも変わるでしょ。そういったことではないでしょうか?
さて、大きな話に戻しますが、何かを語ったり、行動したりする人達を、見栄えが良くないとか、単純に利益がでないと馬鹿にする国なったのでしょうか?
僕は今の世の中、日本を悪くしようと思っている人達は少ないとおもっていますよ。
ですがその一方で、誰かが一生懸命に切り開く人達に対して、少し理解をしようと歩みよってます?
もう少し日本全体ってものを考えてみませんか? 批判され攻撃されている人も同じ人間ですよ。ただ数値や稼げるからって、その人を分からずに批判するというのはやっていることがスキャンダルだけを仕事にしている三流記者で、妬み、嫉み、意地悪する。畜生道(悪業によって死後堕ちる)生前も貴方が真に幸せになるという事は人生一生訪れることはないですよ。
そして悪行というのはそのまま人相にも出ます。自分に対しても人に対しても嘘だけをつくってことですからね。
相手を理解し気持ちを共感しようとおもったら、まず対立というゲームを持ち込む方法論ではないです。対立という軸は、決められたルールやジャンルが用いているものにやるゲームで、まず対話ありきが人間関係の基本です。
商売も対話から始まります。商談という漢字をよく読んでください。
商売=競争なんて理解しているようでは貴方は商売の1面も知ってないはずですよ。競争というのはスポーツや株主の一部部分の領域の論理です。それはビジネスや商取引の全部なんて傲慢の以外の何ものでもないです。
それは一要素って前提の上でまず、言葉を交わす何より対話が大事なわけです。
対話がなければ、相手をしることができるのでしょうか?対話をしても理解はできないかも知れないけど、それでも欠けてる部分や、いい部分はちょっとでも伝わるし、そこに何を持ってくれば互いにうまくやれるのかが人間の本来の生きていることではないですかね。
自分がそういった人間の一員であるという自覚を恥ずかしながら、疑いながらでも生きていくというのが虚と実に生きる矛盾した人間という生き物の義務じゃないですか?
何か、騒がしくなったら少し冷静になって物事を観て、自分の周りの環境や人達の繋がりを大切にしましょう。それが大きな和になって全体に波及していくと僕は信じてますよ。それではまたね。