2024/12/17 火曜日【本質22】 「挑み続けること – リヴァプールと僕自身の生き方」

2024/12/17 火曜日【本質】 「挑み続けること – リヴァプールと僕自身の生き方」

こんにちは、お元気ですか?

僕はリヴァプールが好きだ。サッカーのクラブチームとしてのリヴァプールは、ただ強いだけじゃない。彼らの姿勢が好きなんだ。そしてその姿勢には、僕自身がどうありたいか、どう生きたいかが重なっている気がする。

リヴァプールの象徴的な言葉は “You'll Never Walk Alone” だ(決してひとりじゃない)。仲間との絆、困難を乗り越える精神、共に進む力強さを感じる。勝っても負けても、そこには挑戦と誇りがある。10人になっても諦めない姿勢や、逆境をひっくり返す勝負強さは、観る者の心に火をつける。

 

直近のフラム戦、ロバートソンがリスクを犯して勝負に出た。少し足が残って退場になったけど、それを "ミス" と捉えるのか、"挑戦" と捉えるのか――人によって意見は分かれる。でも僕は迷わず後者だ。リスクを恐れず挑んだ姿勢に、僕は拍手を送りたい。そして、10人になった後のリヴァプールは本当に怖い。誰一人として諦めず、2対2に持ち込んだ試合は、ただの引き分けじゃない。彼らは挑戦を続け、勝利に向かって全力を尽くした。僕は分野は違えど仕事でその姿勢を僕も見習いたい。

 

僕自身の挑戦

僕は絵志として仕事をし活動している。絵志って言葉には、ビジネスの肩書以上に、道を極めたいという求道的な意味が込められていると感じる。僕は常に 挑む姿勢 でいたいし、その姿勢を 整理してイメージとして共有したい と考えている。

絵を描くことは、ただ技術を磨くだけじゃない。そこには 心技体 のバランスが必要だと感じる。だから僕は

絵の座学を日々仲間と習い。日々の食事を徹底する。そして、ヨガと体幹レーニングで身体を鍛え、ダンス をして身体の柔軟性とリズムを整える。親と仲間と会話をして1日1日を精一杯尽くし、自分の役割を真っ当する。

心と身体が整えば、自ずと技術もついてくる。描く手が止まることがあっても、身体を動かせば頭の中も整理される。リヴァプールがピッチで諦めずに戦い続けるように、僕も描くことを止めない。立ち止まったとしても、何度でも動き出せばいい。その姿勢こそが、僕の生き方だ。強制はしないこういうやり方もあるってことにすぎない。

 

迷いと挑戦の中で

もちろん、僕自身も迷うことはある。

"この絵でいいのか?"
"これを描いて何になるのか?"

"このイメージで相手は満足するのか?"

そんな風に自分の中で葛藤するとき、リヴァプールの試合を観ると答えが見えてくる気がする。彼らは勝利のために最善を尽くし、時には失敗する。でも、その姿勢があるからこそ、人の心を動かす。

経営者も、監督も、スタッフも、サポーターもその一点に置いて、信じているからこそ間違っても修正し続けて、今でも存在し残り続けているのだ。

僕が絵を描く理由も、誰かに "届けたい" という純粋な気持ちだ。

ありのままの自分や他者を描き出すこと

整理して共有すること

違いと存在を肯定して伝えること

これが僕の目標であり、目的だ。そして、それを続ける姿勢が、僕自身の表現を磨き続ける力になる。

挑戦し続けることは、時にしんどい。でも、

"失敗しても、何度でも立ち上がればいい。"

そう教えてくれるのがリヴァプールであり、彼らを支えるサポーターの精神だ。僕も、サポーターとしてその姿勢を応援し、自分自身の生き方にも重ねていきたい。

 

読んでくれる君へ

今の世の中、効率や結果だけが重視されがちだ。でも、リヴァプールの試合を観ていると気づく。既存の社会に文句を言う人達は甘えている。この事実の言葉が炎上するのは間違っているって俺は思うよ。文句の言葉を発することは、自分に刺さっている自覚があるからでしょ。年寄りだろうが、中年だろうが、若者だろうが年齢なんて言い訳は僕は一番聞きたくない。

それが男女共かっこいい大人ってそうだろ。俺の親父は今70代だけど今でも下の世代の為に出勤数を調節してやれることを真っ当しているよ。俺はその背中を常に観て育ったから恵まれているのかもしれない。社会が求めてないなら自分からやるって当たり前を素直にやらないほうが僕は罪だと思います。僕は今30代半ばだけど、下の世代に申し訳ないって思うから頑張れる。間違ってるか正しいかはわからないけど今やれることを精一杯やる。

日本って元々和を以て貴しと為す(わをもってたっとしとなす、わをもってとうとしとなす、やわらかなりをもちてとうとしとす)結束して総合力でやってきた国がジャパンって事を忘れて、文句、文句、文句、うんざりだよ。

聖徳太子を言葉を今こそそらんじろ。ここが原点だろ。

政治、経済、文化、エンタメ、スポーツ、教育、技術、社会、農業、これ以外にもたくさん軸があるけど、どの分野だろうが文句があるなら当事者になる覚悟をもって中に入れ。そこに能力や才能がないのなら自分でできる領域を見定めて真剣に向き合って突破するまで頑張ってやりなさい。以上だ。

 

文句なんて、人をいじめる構造と大差ないって理解してくれ。本気で批評家をするなら面と名前を出せ。

建設的にやれることを互いにやっていこうぜって。なぜ言えないの?おはようございます。いいですね。こうしましょう。ありがとうございます。ごめんなさい。この当たり前の礼節がなんでできない大人が多いだよ。本当にがっかりでうんざりだ。

若手であればあるほどそういう本音は隠している人だって一部はいるんだぜ。

目上だろうが目下の人だろうが、日本の成り立ちを話せないってどんだけ教養がないんだ例えば、エリートの本来の意味は、ラテン語の「eligere(選ぶ、選出する)」に由来する「選ばれた者」エリートって点数とれる人間じゃないんだぞ?

 

エリートって他人や物事のために尽くせる人。ラテン語キリスト教の文脈で本当の言葉の意味を教えるなら、他人のために死ぬ覚悟がある人だぜ。西洋も東洋もアプローチの違いはあっても武士道と同じことを言っているだぜ。

つまり一人でも闘う覚悟のある人。古い言葉なら文武両道ってやつだ。経済を一生懸命やるなら経武両道でもいい。まぁ何を覚悟して選ぶかはその人その人で違うだろ。

だから、今のエリートって言葉の乱用は誇りと覚悟がなく使ってませんか?って本当に思うことが多い。

 

皆どこかしろで当事者って自覚の現実を直視せずになじる。

それは間違っているじゃないの?

僕はこう思うよ。"過程" や "姿勢" こそが、人間を美しくするんだ って。

リスクを恐れて何もしなければ、何も変わらない。大切なのは、全力で挑んだその一瞬に、自分のすべてを込めることだと思う。

このブログの文章も最低限のてにをはは守り、其れ以外は突き動かされるままどうやったらいい影響を与えられか、押し付けずに伝わるのか日々模索しながら書いている。

僕は死ぬまで職業絵志として、挑戦し続けるそれが今の僕だし、僕がつかんだことだ。
では、あなたが何かを選び、何を掴むだい?迷いながらも前に進むとき、僕のこのブログが背中を押せたなら、それが僕の一番の喜びだ。お金なんて二の次、三の次だ。

コメントもいいねも別に求めない開かない。このブログいいな。一瞬目に止まっていい方向に進むなら僕は本当に嬉しいだ。

 

だってたくさん読んでくれているのはデータで知っているから、だから僕も期待に応えようと日々フィードバックして鮮度をあげていく姿勢と行動で示すだけだ。

自分のこれからはどうなるかわからない。でもあなたもどうなるかわからない。

世の中はいいこともわるいこともある。

正気でいられる方が難しいのかもしれないし、僕はとても厳しいことを言っていると自覚もある。

けど、挑戦し続けること。それこそが生きることじゃないのかい?

リヴァプールと僕自身の生き方が、誰かの気づきになれば嬉しい。